南濱墓地 墓石調査 Mブロック
まずは配置図を作成しました。
各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。
この列のほとんどは大町氏のものです。出自を誇るべく源姓を刻んでいます。
この列の奥には屋根で保護された明神がありますが、墓石の隙間をスリ抜けるしかありません。
その脇にある木は大胆に枝落としされています。
中央で背中を向けている大きな2つの墓には源とあります。
右から順に
M-1 竿石が落ちており、しかも剥落が激しく3文字しか読めません。
M-2 正面 源義晴墓
右側面 寛政2年12月19日(1790)
左側面 大町氏
M-3 正面 敬姜院貞良尼墓
右側面 文政11年11月6日(1828)
左側面 大町氏
注目したのは、竿石ではなく、台座です。堅い花崗岩を平滑に仕上げ、しかも角はすべて丸めています。
手間と費用がかかり、金持ちでないとできません。
通路に放置されている蓮華座がなぜそにあるのか、触れないことにします。(触れてるじゃないか)
M-6 正面 結到霊界童女位
右側面 文化13年11月13日(1816)
左側面 桑名臣 梅田氏
少し変わった戒名の娘が何歳だったのかは書かれていません。
心安く霊界に行ってほしいという親の願いは読み取れます。
問題は左側面です。 苗字があるのは実は農民でも町民でもあることで、ただ公式には使えない、というだけです。
桑名臣 というからには、桑名藩の家臣あるいは元家臣あるいは陪臣(家臣の家来)
桑名藩の家臣が大阪に墓を作るというのは???なのです。
桑名藩は幕末にはゴタゴタしますが、この時代の桑名藩は失政もなく浪人が増えることもなかったハズ。
梅田氏がどのような立場であったのか、まったく不明です。
M-8 正面 釈 知正
妙信
右側面 ご覧のように右半分は空白で左側に
妙 宝暦五巳亥年四月十八日(1755) とあります。
左側面 大町氏
さてこの墓は、妙信(女性)が亡くなって夫である知正が夫婦墓を建てたのです。
ところが、知正が亡くなったとき、一緒には葬られなかったのです。
普通なら夫婦の亡くなった日付が並ぶのですが。家族に何があったのでしょう。
若い後妻を貰って、この墓は・・・ カモネ
右から順に
M-18 表面がすべて剥落し、まったく文字が消えています。
たいてい数文字は残るのですが、これはお手上げです。降参。
モルタルで立てた時にはどうだったのでしょう?
M-19 正面 釈智教
右側面 寶暦五乙●年(1755)
左側面 大町氏
この墓は他にない特色があります。 蓮華座に乗る仏(多分地蔵菩薩)を、一体に彫っています。
腰から上が無くなっているのが残念です。
M-20 正面 尚室 剥落が激しく上2文字だけ残っています。
右側面 享保十四●年●二月八日(1729)
左側面 大町氏
M-21 M-22
正面 源安●之墓 正面 源安晴墓
右側面 延享●年 右側面 寶暦五年
左側面 大町氏 左側面 大町氏
花崗岩の表面仕上が荒いため風化が進んでいます。 それに比べてや柔らかい砂岩の方がしっかりしています。
最も端にいろんな石が積み重ねられています。墓地の整理で迷子になったものです。
笠石の下にある台座には「岡本屋 藤兵衛」という屋号があり、大町とは関係ないことがわかります。
実は、大町の墓はすべて、裏側には文字はありませんでした。
きっと理由があるのでしょうが、思いつきません。オモシロそうなんですが。